本書は、Hand-Herman Hoppe, Getting Libertarianism Right, Mises Institute, 2018 の和訳である。自然権的リバタリアンなら誰でも知っているように、人間は自分の身体と正当な手段で手に入れた財産に対する権利(私有財産権)を持っていて、他人に侵害を与えない限りにおいてそれを自由に用いることができる。これはリバタリアン社会を確立・維持するための大原則だ。しかし実際にはそれだけでは不十分だとホッペは言う。つまり、伝統、文化、家族、共同体などを無視して自由だけを主張するのは形式的にすぎず、非現実的だというのである。本文を読めばわかるが、原書名にある「Right」を「正す」としているが、本当は「右に向ける」とか「右翼にする」という方がより適切だろう。ホッペによる批判のやり玉に一番に挙げられている事例が「移民の自由」である。リバタリアンなら、誰がどこに移住しようが自由だと考える。政府による移民の規制や禁止は許されないと言うのが普通だ。しかしながら欧米では大量の移民が住民との間で様々な問題を引き起こし、伝統、文化、そして共同体を破壊している。移民を受け入れる住民は直接に侵害を受けていないから、彼らを甘受しないといけないのか。そうではない。無政府のリバタリアン社会では、共同体もまた国家や地方自治体の管理下ではなく、住民による文字通りの自治に委ねられる。外部の人間が共同体に移住して参加するためには、共同体の住民の賛意を得なければいけない。そのためには移住者が住民と同じ習慣や文化を持ち、同じ言語で会話し、友好的な関係を築くことが不可欠になる。例えば、全く違う言語を使うので会話ができず、昼に寝て夜に起きて騒ぐような人が共同体に加われば、住民が迷惑するのは間違いない。だから、移民の自由の禁止は自由の制約の容認ではない。共同体に移住しようとする人と共同体の住民との間で合意ができるかどうかの問題である。残念ながら今の世界はリバタリアン社会からはほど遠く、国家も自治体も厳然として存在している。そして先進国の多くはいわゆる「福祉国家」だ。移民が入国すればするほど、公共財を含む「福祉」へのただ乗りが増えることになる。そして既存の納税者の負担が増え、文化的な摩擦が増え、国内が混乱するのだ。昨今のリバタリアンは形式的であるだけではない。平等主義に侵されている。そして絶えず新しい権利が採用されているとホッペは嘆く。ホッペの師であり同僚でもあったマレー・N・ロスバードもまた同様に平等主義を自由の敵であると考えている。本書には今の平等主義的で「政治的に正しい」世の中とは反すると思える記述もあるが、リバタリアニズムを正すためには必要な事柄なのである。
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