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どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。
レビュー(164件)
色々と思い悩んでいるときに手に取りました。五木寛之氏の作品は、読んでいると、そっとやさしく語りかけてくれているような気がします。読み進めるうちに少しづつ気が楽になっていくような気持ちになりました。よかったです。
ゆっくり下山を楽しみます。
人生には登山の時期があれば、下山の時期もあるとは、妙に納得してしまいました。
読み切るのにやや時間がかかりましたが、色々考えさせられる内容でした。
世間的なものの束縛からの解放で得られる幸
私も若く成長をしていた頃は前ばかりを向いて勢いが有りましたが、つまずいて立ち止まり過去を振り返り、忙しさのあまり多くの事を見逃して来た事に気付き、失敗や罪に当たる事も誤魔化して来ていた事が解り、後悔し反省しました。後ろを振り返り点検する事が無く、知らない間に思わぬ方向へ逸れてしまい、人間としての本来あるべき姿からかけ離れてしまっている事が有ります。過去は実際に在った事、自分の心の奥深くにしまわずタブーにせずにさらけ出して「悔い改め」をし、それによって未来への真の希望が湧いて来る事に繋がります。人間の根本は心であり、その根本が悪ければ、表面的に繕っても何時までも変わりません。また最近、インターネット等でタブーが暴かれているのも過去を振り返る事によるのであり、その様に過去を振り返る事から真実が見えて来ます。 努力は必要ですが、無理せず人と競わずマイペースでする事が、殆どの世間の人々にとって下山に当たると思います。世間の評価・評判・見栄・付き合い・しがらみ等の束縛から自身を解放し、今までと異なった見方・捉え方で情報を捉えたり物事と接し、自分は自分として世間と違った道を歩む事が下山に当たると思います。そうする事で、行き詰まり感から希望が湧いてくるのではないかと思います。情報の捉え方が異なる事は、世間的に常識とされる事を疑い真実に目覚める事になります。 法然と親鸞が其れまでと違って修行、教養、寄進等を必要とせずに、罪を犯した人も皆浄土へ行く事が出来ると言う教えを、山から下りて下層の民に入って広めて行きました。同時期にイタリアで活動されていたアシジのフランシスコは元々裕福な商人の家の生まれでしたが、学問を身に付けず全てを捨て、粗末な衣を身にまとって托鉢的に布教したり、らい病の患者を癒したりしました。その清貧の姿から民衆や教皇等の教会側が正していく事に繋がりました。 下山し、自分の能力で自己実現しようとするのでは無く、運命に委ねる、神様に委ねる事が人間の本当の姿に繋がるものと思います。成る様に成る。宇宙、自然、あらゆるものの存在について科学的に説明する事には限界が有り、説明出来ない「不思議」な事が現実に起こっています。人間の生命を始め、その奇跡的な事が、万物の創造主による神様によるものという事と言う事を悟り、其の方に委ねる事で全ての事からの解放が得られ、真の幸福へと繋がります。
知人に頼まれて購入。とてもためになり良かったと言うことでした。