この『男脂』なる小説はある男の存在を克明に記した伝奇です。『男脂』の主人公となるこの男は常に脂を欲しており、それを隠している男でした。美術誌の仕事を隠れ蓑にし、脂の道に邁進するこの男は気持ち悪くも気持ちの悪い脂まみれの食生活を謳歌していました。 常に脂に重きを置く男は脂を軸に万物を捉え、脂に囚われるあまり、見えないものを見出し、聞こえない声を聞くようでもありました。男をここまで専心させる脂とは動物性の脂なのです。積極的に男が食べた脂は腹の奥底で燃え上がり男を躍動させ男の戦いを支援しているのでした。決して消えることのない脂のともしびはその脂が動物性であるがゆえに匂い立ち、男を孤高の存在へと誘いました。そんな高みだか窪みだかで構築された男の世界は脂の世界でありました。そこに現れる人々は男の親族や、美術誌の編集長を務める阿部素子や、東洋美術史を専門とする正木響子教授や、その助手の太田氏や、男の学友であった佐々木君や、「漢字博士」と呼ばれている南海玄一翁や、その奥方の貞子さんや、漢字博士の隠し子の麗子嬢でした。内心では「脂質を求めて何が悪い」と主張する男の脂質への執着は尋常ではありませんでした。単にこってりとしたものを食べたいと願うばかりでなく、世界や宇宙を超えて満足を得ようと貪欲に考える男でもありました。しかし、驚くほど小規模な男の経済の中で進められる脂生活は脂の滲むような努力や涙ぐましい工夫によって初めて成立するのでした。貧乏と言えば貧乏、貧しいと言えば貧しい暮らしの中で豊饒この上ない脂生活を繰り広げる男は海を越え山を越えた食を通じて脂指向の食欲を加速させました。男が同族と言い張る脂側の人間に対しては連帯感を覚える一方で、爽やかな人間を忌み嫌い遠ざけるようなことをする男でもありました。完膚なきまで脂に傾く男の嗜好は留まるところを知らず、「ごちそうさま」を唱えた直後でもなお脂を求める男がそこにいるのでした。そのような嗜好を自身でも認識する男は忌み嫌われることを恐れ脂生活を隠し秘密にしていました。秘密のうちに咲き誇る脂はねっとりとして再帰的に鈍く光りました。そんな暗い光でしか解明できなかったであろう『男脂』の世界は時間と空間を幾重にも交錯させた千変万化の脂模様を織りなしていました。そこでは、漢字字典の編纂は進まず、響子先生は企業から告訴され、漢字博士は世界的な組織に脅迫されるという大変な事態を迎えながらも、それらの問題を解決するでもない男は何ら動じることはありませんでした。しかし、あるはずのないタイムマシン騒ぎにまで巻き込まれ、静かな脂生活だけを望んでいた男の世界は一変しました。 当然であったことが当然ではなくなり、男は追い込まれ戦うことを余儀なくされました。『男脂』の中に『男脂』が登場する入れ子となった複雑な構造には、美しい正木響子先生とのロマンスを夢見る男の命を懸けた試行実験までもが織り込まれていました。愛のために再帰的に繰り返される『男脂』の世界はまるで多世界をまたいで語り継がれるような脂みどろの世界なのです。
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