寛文10年(1670)江戸の人口が百万人を超え、米不足を解消するため幕府は出羽国の御城米を江戸へ直送する計画をたて、河村瑞賢にその整備を命じた。酒田湊から江戸湊までの航路を整え、寛文12年(1672)4月8日、瑞賢一行56人が宿処である中町の二木九左衛門宅に到着するや、酒田町奉行中台式右衛門が裃をつけてお見舞いにあがり、河村瑞賢は晴れがましさでいっぱいだった。月が替わった5月2日、最初の御城米船団が日の丸をなびかせ酒田湊を出津した。2カ月後の7月に無事、相次いで江戸湊にその雄姿を現す。米質に劣化もなく大変に良い結果を得たのである。西廻り航路の整備完成であった。やがて、天和3年(1683)酒田は、町数49、戸数2,251戸、人口12,604人を数え、入湊する北前船は年間1,200艘を超える、全国有数の湊町になった。酒田湊には三十六人衆をはじめ60軒ほどの廻船問屋があったが、本町一ノ丁から七ノ丁の廻船問屋はもちろん、河岸八町の小さな問屋や宿処まで大変な繁盛ぶりで、町民も次々と入津する北前船(千石船)を大船(おおぶね)と呼んで歓迎した。元禄元年(1688)、廻船問屋の鐙屋(あぶみや)の繁盛振りが井原西鶴の日本永代蔵で西の堺、東の酒田と紹介された。廻船問屋である三十六人衆は、自治組織を作り商売は分業しあって隆盛を極めていった。一方、酒田湊には、多くの商人や旅人が滞在し行き交うようになる。酒田町奉行所では犯罪捜査担当の同心と手先の目付たちは、旅人に病気、事故、行方不明などの事件が多発するので、その度に国許へ照会し、関係者を呼び寄せるなど、暇をもらえないほどの大変な重労働を強いられた。その事件のいきさつは「足軽目付御用帳」として残され、近世の酒田湊の事件簿として180年の間、幕末まで記録された。それ等も参考にしたが、内容は全てフィクションである。ミステリーでもなく、事件のトリックを暴くものでもない。瓦版のように事件を気楽に綴ったものである。読者からは当時の酒田をしのび、捕物帳にこだわらず夢のある街を楽しんでもらいたい。
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