森田/友幸 1920年3月、福岡県大牟田市に生まれる。1937年4月、海軍兵学校入校、1940年8月、卒業(第68期)。同年10月、艦隊配乗。巡洋艦「摩耶」「鳥海」乗り組み。1941年12月、太平洋戦争勃発。「鳥海」、駆逐艦「芙蓉」「霞」水雷長として各方面作戦に従事。1945年2月、「天津風」駆逐艦長。同年5月、支那方面泗礁山部隊指揮官。1946年3月、引き揚げ、復員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです),大戦末期の日本軍の駆逐艦は潜水艦探知能力が無に等しく、見張りにのみ頼って闇雲に爆雷を投下する攻撃しかできなかったという事実を初めて知りました。 特に、B25(中型機)1機と艦船との比較も面白く、航空機は装備面で優に海防艦1隻の戦力を上回っており、かたや乗員6名、海防艦は180名、1艦を失うことは30倍の戦闘員を失うということになり、全くわりのあわない戦闘であった・・・という記述は、とても興味深かったです。
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25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく
森田/友幸 1920年3月、福岡県大牟田市に生まれる。1937年4月、海軍兵学校入校、1940年8月、卒業(第68期)。同年10月、艦隊配乗。巡洋艦「摩耶」「鳥海」乗り組み。1941年12月、太平洋戦争勃発。「鳥海」、駆逐艦「芙蓉」「霞」水雷長として各方面作戦に従事。1945年2月、「天津風」駆逐艦長。同年5月、支那方面泗礁山部隊指揮官。1946年3月、引き揚げ、復員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
そうだったのか!
大戦末期の日本軍の駆逐艦は潜水艦探知能力が無に等しく、見張りにのみ頼って闇雲に爆雷を投下する攻撃しかできなかったという事実を初めて知りました。 特に、B25(中型機)1機と艦船との比較も面白く、航空機は装備面で優に海防艦1隻の戦力を上回っており、かたや乗員6名、海防艦は180名、1艦を失うことは30倍の戦闘員を失うということになり、全くわりのあわない戦闘であった・・・という記述は、とても興味深かったです。