和歌山県出身の中上健次の作品を胚胎した新宮市の「路地」と称される地域は、彼を論じた夥しい文献に用いられて余りにも有名であるが、ややもすると論者それぞれの思い入れで恣意的に扱われ、概念規定が行われないまま恣意的に使われて来た用語である。本書はそれを批判しつつ、古今の文献からこの語のおびただしい用例を収集・調査し、その結果に基づいた論拠を立てて、なぜ中上がこの語を必要とし、作品の特性に活用しているかを作品形成とその背景に即して論じ、問題提起を行っている。 知られるように、中上の出自は被差別世界に属していたが、それに関する記述に「路地」という語がどのように機能し、どのような喚起力を作品にもたらしたか。また、被差別をめぐる歴史が彼の作品にいかなる影を落としたかを「蛇淫」「不死」「千年の愉楽」「異族」などのテキスト分析を行い、熊野という風土の独自性と歴史、伝承、上田秋成などの「雨月物語」など典拠の作品風土に即した生かされ方、新宮に大きな影を落とした明治期の大逆事件の影などについての分析を行って今後のこの分野への指針となり得る記述が少なからず含まれていると思われる。そして、これまでの中上研究で論者の視野に入りにくかった俳壇との関係、俳句への志向を取り上げ、少なからぬ俳人たちとの交流に伝記的検討を交えて論じている。俳句の実作者としても活躍している論者劉国勇氏の独自の視点が随所にうかがえ、本書の特色となって今後に期待を繋ぐ部分と言えよう。 中上の生きた時代への目配り、関係人物たちへの言及も過不足ないものと思われる。これまで、中上の世界は同時代批評やエッセイで取り上げられる事が多く、文学史、思想史などの学術的な研究分野での業績は相対的に乏しかったが、本書はそのような状況を改善させるのに寄与貢献出来るのではないかと期待される。
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