あらゆる〈言語〉論に、不満がのこった。構造言語論も分析哲学も、現象学や解釈学や記号論の展開する言語論も…、結局、言語は、表出された場のゲームかドラマと考えている。どんな沈黙も非言語もテクスト化されるという前提からしか、あらゆる〈言語〉論ははじめない。書かれざる余白と沈黙をどんなに含んでいても、それらは書き足される可能性の未定形なすがただというのだ。ほんとうにそうだろうか。近代にはいって、日本の詩は、どこを経てどこへ行ったのだろうか。それが、私小説作家や名文家といわれる小説家たちの文体へ拡散し、住みついていったとして、近代化過程にあって、詩を書き文章を綴った人たちそれぞれの内部で、どんな逸脱があり、なにが遺され、なにが喪われていったのか。いいかえれば、日本の近代が、その言葉の領域で肥大させていったもの(その到達点に現在があるのだが)、肥大させていったときに寄生したもの、喪われたもの、これをみさだめておきたい。
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