ツインレイに出会えた幸運な2人を待ち受ける“ラブストーリー”
終わらない試練を乗り越えるために
最近、恋愛系のSNSやインターネットで「ツインレイ」という言葉を目にする。前世で一つだった魂が現世で2人に分かれた、「魂の片割れ」を意味するスピリチュアル用語だ。
古代ギリシャ哲学では、人間は神の怒りによって体を二つに引き裂かれ、失われた半身を求め焦がれる心が「恋」なのだと語られる。“運命の相手”という己の半身を探して、人間は死ぬまで彷徨(さまよ)い続けているのかもしれない。
互いに覚醒する「違和感」
物語の主人公である京之介と万里子は、ツインレイに出会えた幸運な恋人たちだ。
お互いに一目見た瞬間から惹かれ合い、頭の中を見透かしているかのように共鳴する。しかし幸せな日々が始まるのかと思いきや、そう上手くはいかない。
万里子は「不安」という病を抱えている。誰もが潜在的に持つその感情を、万里子は自分の中で増幅させ、コントロールの効かない時限爆弾のように突発的な発作を起こす。男の服の裾を掴んでいなければ立って歩くこともままならない万里子を支えながら、京之介もまた、幼い頃から不安を押し殺して生きてきたことに気づく。
京之介と万里子は合わせ鏡のように、お互いの姿を通して自分自身を見つめ直す。そして生きることに対する「違和感」が覚醒し始める。
「飛龍伝」はなぜ今も演じ続けられるのか
この小説で重要なキーは、若者の社会性が60年安保闘争を境にはっきりと変化していることだ。京之介と万里子が出会ったのは、学生運動が過ぎ去った大学キャンパス。改革に燃えた学生たちの闘争は遠い記憶になり、埃にまみれたヘルメットが学園の片隅に転がっている。すべてが虚無感に包まれている。小説の冒頭で、「つまるところ、京之介達は何に対しても一歩遅れて来た世代である」と書かれているように、ひと世代前と後で、若者と社会の関係は180度変わってしまったといえる。
60年安保闘争を巡る恋愛の悲劇といえば、劇作家つかこうへいの名作『飛龍伝』が思い浮かぶ。全共闘40万人のトップに担ぎ上げられた樺美智子をモデルにしたヒロインが、愛する男たちと社会との抗争のはざまに散っていく物語はいまも演じ続けられ、若者たちの心に衝撃を与えている。自分らしく生きるため、不純な社会に反抗した末の死。それは純粋さを突き詰めた人間が、時代と社会の相互作用に影響を受けた結果である。
もし京之介と万里子がその時代を生きていたら、社会に反抗することで違和感を払拭することもできたかもしれない。しかし闘争が終わり、個人主義社会となった世の中では、若者たちが感じている生きづらさは、ひとくくりに鬱病と診断されてしまう。どこにも救いを見いだせない二人の意識は次第に社会から切り離され、内向的な精神世界へと没頭していく。
ハッピーエンドを用意しなかった作者の思いとは
ある種のディストピア的なほの暗い世界を生きる二人に、男と女の甘さは感じられない。ツインレイとの出会いは未熟な魂を完成させるための試練なのだというが、著者は安易なハッピーエンドなど用意せず、二人の不安を息苦しいほど鮮明に描いている。
正義と悪を白黒はっきりつけて戦った時代から転換し、多様性が尊重されるようになったグレーゾーンの現代において、京之介や万里子のような人々は受け入れられやすくなったのかもしれない。しかしその曖昧さが「自分は何のために生きるのか」という意義を見失わせる。
本書を読み終えたとき、不安の輪郭を知る手がかりが得られるのではないだろうか。生きるために愛するために、終わらない試練を乗り越える一助にしてほしい。
文・北島あや
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