豊かな経済力を背景に、主家斯波氏の内紛で台頭した織田信秀。
その後、尾張を代表する勢力として国外に侵攻し、今川義元・斎藤道三らと激闘を繰り広げた猛将の生き様を諸史料を駆使して照射する。
信長はどのような環境で生まれ、育ったのか!?
信長登場前夜の尾張戦国史を活写。
附録として「岩倉織田氏の終焉と新史料」(『郷土文化』220号、2014年)を収録。
序章 斯波・織田氏の発展
第一章 織田信秀の家系
第二章 織田信秀の登場
第三章 織田信秀の内外政策
第四章 織田信秀の戦略経営
第五章 病床の信秀
第六章 信秀の一族・家臣
附録 岩倉織田氏の終焉と新史料
レビュー(3件)
ざっと250項あまり、生い立ちから死去まで、家族構成から家臣団まで触れている、 特に気になった点は以下の三点、 一・蹴鞠の指導を名目に公家を京都から招いて尾張国内の与党構築に利用 二・守山崩れ 三・信長公記に一度だけ登場する織田播磨守に関する考察 約20項あまりの内容、二カ月足らずの尾張滞在中に 信秀とその弟達や平手正秀など弾正忠家関係者だけでなく織田大和守家中や尾張守護家、 果ては那古野城主の今川竹王丸まで参加している事に驚愕、 二十歳そこそこの信秀だけでここまで企画出来ないハズ、 恐らく平手正秀や林秀貞も関与してのことか、 守山崩れについては10項程度、 トクガワマンセーミカワブシマンセー史観の三河物語の内容を真に受けるのは危険、 三河から尾張守山へ出兵したならば必ず守山周辺の寺社が三河方に禁制を求めたはず、 その点についての考察がないことは残念、 美濃攻めに関係する考察は10項程度、名古屋市西区小田井の東雲寺碑文では「織田丹波守」、 美濃側の史料では「織田播磨守信辰」、尾張東雲寺碑文を信じるべきだが、 碑文が1705年建立のため確定しずらいのが悩ましい、 藤左ヱ門家当主の「丹波守」はしょせん私称、嫡男への家督相続時に 先代が私称を変更した可能性も有る、今後の研究進展を期待したい、 因みに正室で信長母は「どた」ではなく「つちだ」氏の娘とのこと、 著者は令和三年に死去されているのが残念、ご冥福をお祈りいたします、 後続の研究者の出現に期待、