【輸入盤】交響曲第2番『復活』 ハンス・フォンク&ハーグ・レジデンティ管弦楽団、オランダ劇場合唱団、ヤルト・ファン・ネス、マリア・オラン
ハーグ・レジデンティ管弦楽団の自主制作録音が久々の復活
マーラー:交響曲第2番「復活」
ハンス・フォンク指揮レジデンティ管弦楽団、オランダ劇場合唱団、他
新ホール建設財源の一助として自主制作盤づくりに励んでいたレジデンティ管弦楽団が1985年にセッション録音した音源が久々の復活。会場はコンサートホールとして使用されていたハーグのニーウェ教会。指揮は首席指揮者就任5年目で、ドレスデン国立歌劇場音楽監督兼シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者にも就任したばかりのハンス・フォンク。
レジデンティ管弦楽団の不運
1904年に創設されたレジデンティ管弦楽団は、2,088人収容の多目的ホール「芸術科学館」を60年間本拠地としていましたが、老朽化のため使用中止となり、不動産会社が改修工事を計画中に全焼してからは、本拠地がない状態となり、劇場や多目的ホールなどを転々としていました。
新ホール建設計画
ハーグ市はオランダ王室や国会、国際会議場のある政治的中心都市であり、人口もオランダで3番目の規模であることからオーケストラの需要も見込め、なにより新首席指揮者ハンス・フォンクのもとでの実績が良好であったことから、1982年、レジデンティ管弦楽団は自分たちで資金を募って専用のコンサートホールを建設することを決断します。
資金調達に向けての自助努力
この建設計画は、資金を産業界や政府期間、個人など様々なところに求めるものでしたが、オーケストラの方でも自主制作録音で得た収益を建設資金にまわす目的で、1985年から新ホール「Dr.アントン・フィリップスザール」が完成する1987年にかけてニ十数点のアルバムを発売しています。
自主制作録音の内容
首席指揮者ハンス・フォンクの録音が中心ですが、ほかにハインツ・ワルベルク、フェルディナント・ライトナー、アラン・ロンバールの録音や、指揮者なしの室内アンサンブル録音もありました。
録音に使ったホール
録音会場は、1969年に閉鎖して改装しコンサートホールを含む多目的施設となっていたハーグのニーウェ教会(新教会)。17世紀なかばに、フローテ教会(大教会)が手狭になって信徒を収容しきれなくなったためつくられた教会です。この教会は新ホールに隣接していたことから、複合施設の一部となり、以後、紆余曲折を経て、現在ではより大きな舞台芸術複合施設「アマーレ」に組み込まれています。
ハンス・フォンク情報1966年からネーデルラント・バレエの指揮者兼リハーサル・ピアニストとなり、バレリーナのイェシー・フォルケルツと結婚。1969年からコンセルトヘボウ管弦楽団の副指揮者、1973年からオランダ放送フィルの首席指揮者、1976年からネーデルラント・オペラの首席指揮者、1980年からレジデンティ管弦楽団の首席指揮者と、プロ・デビュー以降のフォンクの多角的な経験蓄積にはすごいものがあり、それがブロムシュテットの後任として、1985年からドレスデン国立歌劇場音楽監督兼シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者に選ばれた理由とも思われます。
しかしこの3年後にはフォンクは「ギラン・バレー症候群」を発症し、長期療養を余儀なくされ、回復後の1991年にケルン放送交響楽団の首席指揮者に就任し、1996年にはセントルイス交響楽団の首席指揮者に就任しますが、5年目の2001年に今度は「筋萎縮性側索硬化症」発症してしまいます。2002年にオランダに戻ったフォンクは、オランダ放送交響楽団の首席指揮者に就任し、2004年に亡くなるまで車椅子で指揮しています。1942年
6月18日、コンセルトヘボウ管弦楽団のヴァイオリニストを父にアムステルダムに誕生。最初ヴァイオリンを習いますがピアノに転向。アムステルダム大学で法律を学んでいたものの(妹は弁護士)、音楽に強く惹かれるようになり、アムステルダム音楽院に入学してピアノと指揮を修め、1964年に特別賞を得て卒業。その後、シエナ、ザルツブルク、ヒルフェルスムでヘルマン・シェルヘンとフランコ・フェラーラのマスター・クラスを受講。
1964年
◆ アムステルダム音楽院を卒業。
1966年
◆ ネーデルラント・バレエ管弦楽団 指揮者兼リハーサル・ピアニスト 就任。
1967年
◆ ネーデルラント・バレエ管弦楽団 指揮者兼リハーサル・ピアニスト 在任。
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