近世の酒田湊を舞台に、市井の人々が織りなす人情話を、おもしろおかしく軽快なタッチで描く、珠玉の短編集である。出羽国庄内の酒田湊が袖之浦から最上川の対岸に移り、新しい酒田の町づくりをしたのは明応元年(1492)のことである。それから520有余年がたった。その後、庄内藩の酒井家が石高13万8千余石で庄内に入部したのは、柿実る元和8年(1622)10月であった。庄内藩では酒田の亀ヶ崎城に城代をおき、町政をつかさどる。続いて、酒田町代官所を酒田内町高橋伊賀の屋敷におき、寛永9年(1632)に酒田町奉行所と改めた。奉行所は亀ヶ崎城から独立し、機能的に運用された。酒田町奉行の配下には7人の同心がいて夫々が町政、文化、司法、火防、犯罪捜査、御城米船および川船の取り締まりに真摯に取り組んでいた。寛文10年(1670)江戸の人口が100万人を超え米の需要が格段に多くなってくると、幕府は酒田湊を起点とした西廻航路による、出羽国の御城米の江戸への直送を計画する。河村瑞賢にその整備を命じた。酒田湊から江戸湊までの航路を整え、寛文12年(1672)4月8日、瑞賢一行56人が宿処である酒田中町二木九左衛門宅に到着するや間もなく、酒田町奉行中台式右衛門が裃(かみしも)をつけてお見舞いにあがり、河村瑞賢は晴れがましさでいっぱいになった。月が替わった5月2日、最初の御城米船団が日の丸の旗をなびかせて酒田湊を出帆、2カ月後の7月に無事、相次いで江戸湊にその雄姿を現した。米質の劣化もなく大変良い結果を得たのである。西廻航路の整備完成であった。そして、天保3年(1683)酒田は、町数49、戸数2,251戸、人口12,604人を数え、入湊する北前船は1,000艘を数えた。移転後、200年をかけて全国有数の湊町に発展したのである。元禄元年(1688)には、廻船問屋の鐙屋(あぶみや)の繁盛振りが井原西鶴の日本永代蔵で東の酒田、西の堺と紹介された。酒田の行政をつかさどる三十六人衆は、自治組織を作り名実共に酒田湊の顔となり、商売は分業しあって隆盛を極めていった。一方、酒田湊が繁栄してくると、多くの商人や旅人が滞在し、行き交うようになる。酒田町奉行所では犯罪捜査担当の同心と手先の目付たちは、旅人が病気、事故、行方不明などの事件が多発するので、その度に国許へ照会し、関係者を呼び寄せるなど、暇をもらえないほどの大変な重労働を強いられることになる。それら事件の顛末は「酒田湊の御用帳」として残された。近世の酒田湊の事件簿として180年間幕末まで記録されたのである。それを参考に実際あったであろう出来事をなぞった。全てフィクションである。ミステリーでもなく、トリックを暴くものでもない。現代の週刊誌の記事風に気楽にまとめたものである。読者から当時の酒田をしのび、夢のある街を楽しんでもらいたい。
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