【輸入盤】フルート・トラヴェルソと通奏低音のための6つのソナタ ジョヴァンニ・ミシュチシン、ヴァレリア・ブルネッリ、ジャコモ・ベネデッティ
緩徐楽章はまるでアリアのようなソナタ集
サルティ:フルート・トラヴェルソと通奏低音のための6つのソナタ
ミシュチシン(トラヴェルソ)、ブルネッリ(チェロ)、ベネデッティ(チェンバロ)
主にオペラと宗教音楽で成功を収めた18世紀の作曲家ジュゼッペ・サルティは、存命中はモーツァルトやベートーヴェンにも影響を与えるなどしていた人物で、54年間の音楽家生活のうち約19年間がデンマーク、約18年間がロシア拠点だった国際派のイタリア人。
モーツァルトを予告するようなオペラの数々のほか、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスを予告するような宗教音楽(ミゼレーレ等)も書いたサルティの楽才は、存命中の名声に見合うものだったようですが、器楽曲についてはあまり評判になっていなかったので、オリジナル楽器演奏によるフルート・ソナタ録音は歓迎されるところです。
サルティは68年後輩のドニゼッティに先んじてオペラのアリアに管楽器のソロを加えることがあったので、フルート・ソナタが書かれたのも不思議ではありません。サルティのオペラや宗教音楽と同じく旋律が豊かですが、この演奏ではトラヴェルソの朴訥な響きが通奏低音と組み合わされることで室内楽的な魅力も感じられます。
ブックレット(英語・8ページ)には、演奏者のジャコモ・ベネデッティによる解説などが掲載。
忘れられたサルティ
最晩年の1802年、約18年暮らしたロシアからイタリアに帰国する途中、娘ユリアナとその夫(プロイセン宮廷楽長ムッシーニ)の暮らすベルリンに夫婦で立ち寄った際に痛風が原因で72歳で亡くなり(妻カミッラはそのままベルリンに滞在し14年後に同地で死去)、カトリックだったため聖ヘトヴィヒ大聖堂に埋葬されていますが、資料の多くがデンマークやロシアにあったりすることから、母国イタリアでもサルティの名は忘れられてしまいます。
進む調査・研究
しかし、近年はイタリア統一前のオペラ上演情報の調査・研究も進んで整備・公開されるようになり、さらに欧米各国やロシアでは歴史的な文書・書物のデータ化、公開が進んで調査が容易になったことで、サルティの生涯や作品についての情報の見直しもおこなわれるようになります。
デンマーク時代の作品
今回登場するフルート・ソナタは、サルティがデンマーク王国のコペンハーゲン宮廷で楽長を務めていた1772年頃に作曲され、パリで出版されたと推測されているものです。当時のサルティの状況について以下に簡単にまとめておきます。
サルティと劇場運営
当時のサルティ周辺は大変なことになっていました。1770年、オペラ上演に使っていた「デンマーク劇場」(演劇がメインの劇場組織)の財政が極度に悪化したため、国王クリスチャン7世は救済措置を講じ、資金援助に加えて宮廷楽長のサルティを支配人に任命して運営させることにし、劇場側と10年契約を結ばせています。しかし、サルティはイタリア語とフランス語しか喋れなかったので、デンマーク語が主体の劇場人とは細かな意思疎通が図れず財政も更に悪化して1772年に破産処理となり、サルティと劇場の契約も破棄されています。
サルティと政変
劇場への資金援助を打ち切り、破産処理とした背景には、1770年から1772年にかけて実質的に権力を掌握し極端な政治をおこなっていたプロイセン人ストルーエンセが残虐な公開処刑(斧で右手と頭部を切断後に体を四つ裂きにし杭に刺して晒す)により殺されたことで、旧体制を刷新し、外国人排斥の機運が高まった影響がありそうです。
時間的余裕から生まれた作品?
サルティの宮廷楽長職は継続でしたが、新体制の「デンマーク劇場」が1774年までかかる大規模な改修工事に入ったこともあって、年に3曲のサルティの新作オペラは不要とされたため、1772年以降は時間的な余裕も生まれ、その時期にパリで広告が出ていたのがこのフルート・ソナタ集です。作曲時期については不明ですが、現役作曲家の場合は広告とほぼ同じ時期の作品と考えるのが妥当と思われます。
サルティと恋愛
サルティは1771年から共に仕事をしていたソプラノ歌手のカミッラ・パージ[c.1752-1816]と結婚し、2人の娘も授かるなど幸せも訪れており、外国人に不利な政変期ではあるもののサルティの気持ちは前向きだったようです。
サルティとデンマーク・ナショナリズム
愛国ムードの中、サルティはでデンマーク語も勉強し、1774年には1幕もののジングシュピール「アクレー」、1775年には3幕もののジングシュピール「恋文」を書いてクリスチャンスボー宮殿で
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