【輸入盤】カンツォネッタとカンタータ集 カルロッタ・コロンボ、ルチア・コルテーゼ、マルタ・フマガッリ、ラ・ギルランダ・モージカレ、他
: マッツァフェッラータ、ジョヴァンニ・バッティスタ (1640-1691)
知られざるバロック作曲家の世俗声楽曲集
マッツァフェッラータ:カンツォネッタとカンタータ集 Op.3より
コロンボ、コルテーゼ、フマガッリ、フェッラリーニ、ボルジョーニ、ラ・ギルランダ・モージカレ
バロック作曲家、マッツァフェッラータによる「カンツォネッタとカンタータ集 Op.3」全11曲から6曲を選んだアルバム。マッツァフェッラータはサヴォイア公国のヴェルチェッリ大聖堂で楽長を5年間務めていましたが、その後は教皇領フェラーラの有名な音楽家職能団体「アカデミア・デッラ・モルテ」で亡くなるまで16年間楽長を務めていました。
作品の出版は主にフェラーラ時代におこなわれており、多くの作品が再出版されていたことから一定の需要があったと考えられます。このCDの収録曲も、1668年に教皇領ボローニャで出版されたのち、1675年と1680年の2回に渡って再印刷されているので、ヨーロッパ各地に出回っていた可能性もあります。実際、同時代の作曲家マウリツィオ・カッツァーティも1660年代にボローニャで印刷して各地に発送していましたし。
面白いのは「ああ、希望よ、私はあなたに何をしたのか」の中の旋律(トラック5の1分26秒から約1分間)が、45年後の1713年にバッハがヴァイマールで作曲したカンタータ第21番「わが心に憂い多かりき」に登場することです。第9曲コラールで、マッツァフェッラータの旋律と、ゲオルク・ノイマルク(1621-1681)のコラール旋律が組み合わされているのです。バッハの仕えたヨハン・エルンスト王子はアムステルダムで楽譜を大量に収集していたので、その中に含まれていたのかもしれません。
ブックレット(英語&イタリア語・16ページ)には、ポーランドの作曲家、音楽理論家、人文科学博士パヴェウ・スチェレツキによる解説などが掲載。
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作曲家情報 ミラノ公国 パヴィア1640年かそれより少し前に、要塞都市パヴィアに生まれたと推測されています。当時のパヴィアはスペイン統治下のミラノ公国に所属しており、ミラノの南約30kmに位置。ジェノヴァとミラノを結ぶ重要な地点にあるためたびたび戦乱に巻き込まれ、1655年には、フランス・サヴォイア・モデナ連合軍約2万人以上に包囲され、撃退するまで約2か月を要するなど過酷な環境となっていました(スペイン側の勝利に終わったためモデナ公国全土が新たにスペイン領となります)。
包囲戦の頃はマッツァフェッラータは15歳前後と思われますが、修業のためにその前にクレモナに行っている可能性があります。 ミラノ公国 クレモナ1650年代、マッツァフェッラータは、タルクィニオ・メールラ(1595-1665)に師事したと推測されています。メールラは1646年から亡くなる1665年まで約20年間、故郷クレモナのラウディ・デッラ・マドンナ教会で聖歌隊の楽長、およびクレモナの音楽家の職能団体である「アカデミア・デリ・アニモージ」で、作曲家やオルガン奏者、ヴァイオリン奏者、教師として働いていたので、マッツァフェッラータがパヴィアの東約70kmに位置するクレモナに行って学んだ可能性があります。
なお、マッツァフェッラータがメールラに師事したという情報は、1661年にミラノ公国で出版された「独唱のための宗教コンチェルト Op.1」に記載されています。
サヴォイア公国 ヴェルチェッリ1658年、マッツァフェッラータは、包囲戦でパヴィア側に敗北していたサヴォイア公国に移り住み、要塞都市ヴェルチェッリの大聖堂(上の地図の左上)で楽長に任命され、1663年まで約5年間在職しています(近年の推測では楽長就任前からヴェルチェッリの大聖堂で働いていたと考えられています)。また、地元の神学校では監督官兼教師も務めていました。なお、ヴェルチェッリは、パヴィアの西北西約60kmに位置しています。
教皇領 フェラーラ
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