わが身を振り返る
私は3歳の頃、母の集団疎開先であった天竜川沿いの開善寺へ行く中央線の中から線路際の墓地を見て「もうご飯を食べない。食べると大人になって、死んじゃうから。」と言ったらしい。塩山か韮崎か、いずれかのスイッチバックで停車した際だったと聞く。
それ以来、40代に至るまで、死について考えると眠れなくなることが多かった。いろいろな宗教や心理学や生物学に関わる本もたくさん読んだ。禅僧や牧師などとも話しをした。しかし、なんの解決にもならなかった。
50になったか、或いはその前だったか、急に気にならなくなった。
人間を個体として考えて分析した時、最後は原子レベルに分解するだけであり、それと共に知識も記憶も全てが消えると思い至ったからである。
釈迦の悟り、解脱も、輪廻転生からの超越を目指したものであり、キリスト教の再生も転生などではなく、最後の審判を永く待つだけ、つまりはそれが来るまでは無なのである。魂は文学の問題で現実世界には存在しないし、何かを後世に残そうと思えば、文章なり、造形なりを残す他はない。
それ以来、闇も物理的不安の他はない。
死が来ることは相変わらず恐怖ではあるが、心は明晰である。
この本の結論と異なるのは、私は私であり、ここに存在する「私」である。私は「私」という「今ここにある存在」に固執するということである。
植物にしろ、多くの動物にしろ、種の保存と言うことだけの為に生きているように見える生物群の中で、何故、ほぼ人類だけが、こんな営みをして生きているのか、それを考えるだけでも「そこにある何か」ではないことは明らかだと思う。
理解しないこと、答を見つけないこともひとつの解ではあろうが、先に進めない。
いずれ、死と言うものが無に返してくれるわけであるのだから、生の側にある限りは確りとその意味を考え、捉えていかねばならない。
死を考えることは、やはり出発点ではなく、終着点とすべきである。
神仏は不要である。この短い生の間に、何を考え、何を見つけるかである。
解は無機質に還元しようとも、その時は「私」もないのだから、何かに残す残さないは別として、最後まで考えて生きる。
考える、故に我在り。
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