史料分析が見事
第1章:鎌倉幕府成立は1180年の頼朝が挙兵し鎌倉に本拠を定めた時点,鎌倉時代の始まりは1183年平家が都落ちし,後鳥羽が頼朝の権力を公認した時点においている。これが今や主流となっているのか。「院政とは,天皇の直系尊属にあたる者が政治を主宰すること」であり「皇位継承の決定権を握るために院政が行われたといったほうがいいと。」そのため天皇はすぐ譲位し自分の直系に天皇をゆずり、帝王として本領を発揮した。更に自分の直系を皇太子にすることをめぐって親子でも争いがあり、朝廷が2つに分裂していく流れを描いている。
第2章は「執権政治の時代」であるがここで裁判に関する記述と執権政治に力点が置かれている。執権、連署、六波羅探題、鎮西探題を北条氏が独占し、同一次物が六波羅北方や引付当人になったり連署や執権に就任するなど北条氏が政権を独占していた。また執権による訴訟制度の改革が次々に行われていくのであった。さらに鎌倉と朝廷を結んだ関東申次の第3章のタイトルが蒙古襲来ではなく「モンゴル戦争」としている、。このことへの説明は文章には垣間見られなった。第4章「徳政と専制」では、為政者によって訴訟制度が変化したこが述べられており、源氏将軍再興路線の安達泰盛と親王将軍路線の平頼綱で
の訴訟審理の相違など興味深い。また亀山・後宇多の皇統と後深草。伏見の皇統の対立=持明院統と大覚寺統への分裂についても系図を用いて説明されていることがとてもよい。さらに徳政に関する期限限定に関する記述、得宗家の天下触穢に関する記述もよかった。
第5章は裁判であるが鎌倉時代くらい裁判に関するしくみや体制が次々に変わった時代はなかったのではないだろうか。後半の分割相続が訴訟を続発させたというところは面白かった。大規模開発が分割相続を生み出し,開発が限界になり分割相続が限界になり,この社会矛盾が訴訟を続発させた。
第6章:得宗家は朝廷の簡易では公卿ではなく低い部分であったが皇位継承などで得宗家に依存していた面がある、つまり得宗家が公家社会に不当に介入したのではなく、公家社会のほうが得宗家の公権力の行使を期待していた。つまり鎌倉から伝えられる皇位継承の決定などの意見を京都では関東太守の声として聞く。また3つの権門体制論に疑問を提示し,頼朝が鎌倉に幕府を創設したことが朝廷との別世界を築き、幕府という新しい形を創設しなければ王朝交代がなされていた。
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