素晴らし過ぎる本。写真を通しての森羅万象

「はじめに」の一行目から、一語も見逃さず最後まで一気読み。物凄いボリュームがあり、ブラックホールくらい世界を呑み込んでいるというのに、対談している両者の知識が同レベルに頂上を極めていて双方向に広く長くトンネルが開通しているためか、スムーズに読み進められる。写真について語ると、鏡の自分の目の像と目を合わせ続けるかのように自家中毒を起こすのではと心配したが、そういう落とし穴、又は沼に嵌らないために言葉というものはあるのだという、言葉、つまり人間の思考の連続に対する信頼と敬意のようなものが湧いて感謝したくなってくる。何にでも安易に賛成して楽に安心しない、しかし何にでも否定して利己的に防衛的に排他的に自己弁護して狭い場で「理解者」のみと自画自賛しているのでもない、開催者たちが拓き、誰にでも開かれた、古代ギリシャの、アリストテレスがいたような広場を想起した。写真とは、その時空に己が確かにいたという存在証明、存在証拠、なのだと思ってきた。ゆえにデカルトの「われ思うゆえにわれあり」の物質化なのではと思う。無から掌に粉を出すと話題になったのはサイババだが、写真は無から物質が出てくるのではない。無人のカメラがシャッターを切ることは可能だし、ドローンはそうして人の行けない場で動画を撮影しているが、それにも、そのカメラをタイマーなどである一か所に置いた誰かの思いありきだし、ドローンも、誰かの思いがあるはずだ。誰かの思いありきで、誰かのそれまでの人生をのっけて指先がシャッターを押す。その決断の潔さ、後に引けなさ、言い訳できなさ、が写真の魅力なのかもしれないと思った。焦点を合わせることが正気でいることで、正気を失うということは、焦点を絞れなくなることなのかもしれない。だから人は写真を見て、撮影者の焦点と同期することで自分以外の脳内のフォーカスを一瞬体感し、他者の正気を借りて自身の正気を修正していたりするのかもしれない。それが個人という、全くの孤独だと狂うシステムにとって、社会化や他者化で、それは究極は愛という受容の一形態となるのでは、と思った。写真と写真についてに、一気に興味が広がり深まり、今後の写真を見る目が変わる。この本は、写真家の畠山直哉さんが被災し家と家族を失ったため、東日本大震災についても語られている。表紙の、畠山さん撮影の、誰なのか明かされない人物のカメラを構えた姿が尊く美しい。