●実践とかけ離れた精神分析は、臨床理論としての実質を欠いている。その場合「精神分析はなんぼのものか」と言えば、それは見掛け倒しであり、外出用の衣装の一つに過ぎない。著者が英国タビストック・クリニックで出会った精神分析は,日常と密接にかかわり、生きることそのものに根ざし、普遍的な魅力を持つ実践であった。精神分析はフロイト以来大きく姿を変えつつある。既存の実践や理論のあるものは、時代とともになくなる運命にあるのだろう。しかし、それらが消滅しても、情動経験の中に自ら没入し、内省するという精神分析の「実質」は、揺るぎないのである。気鋭の臨床家が臨床実践から一歩離れた地点で、心の臨床家の専門性を支えるものとしての精神分析の実質を熱く論じる。
* * * 解 説 * * *
多くの日本の臨床家にとって、精神分析は実践するものというよりも、実践で生じることを「理解する」理論であるように思われる。しかし、実践(そして自分)とかけ離れた「理論」というものは、臨床理論としての実質を欠いてしまっている。実際多くの臨床家は、精神分析理論を知性化の一つの形としてしか受け止めていないように思うし、それも故なしとは私には思えない。この場合、精神分析はなんぼのものかと言えば、それは見掛け倒しであり、外出用の衣装の一つに過ぎない。私が、ロンドンのタビストック・クリニックで子どもの精神分析的心理療法の研修を受け始めたとき、蒙を啓かれる思いをしたことの一つは、精神分析の実践は日常とかけ離れたものではないということである。タビストックでは、日本の学会で行なわれているように難しい精神分析用語を連発する人はいない。皆自分の言葉で感じたこと、考えたことを表現するように努めているように見えた。週五回であるとか、寝椅子であるとか、あるいは「投影同一化」とか「α機能」といった奇異な言葉そのものが精神分析ではなく、人と深く関わり、自分自身に深く関わり、そしてそこで起こっていることを観察し、自分の気持ちを振り返り、何が起こっているか考え、話し合っていくことこそが精神分析の本質であることが普通に共有されていたように思う。それは書物を通じて、あるいは日本の学会で感じる精神分析とは似ても似つかない精神分析の姿であったし、面白みであった。それは、日常と密接にかかわる精神分析であり、生きることそのものに根ざした実践であるという点で、普遍的な魅力を持つものであった。精神分析はフロイト以来大きく姿を変えつつあるかもしれない。既存の精神分析の実践や理論のあるものは不必要なものであり、時代とともになくなる運命にあるのだろう。また精神分析の「正統的実践」や学会や難しい言葉も本当に存続する必要があるかどうかは疑わしい。しかし、それらが消滅しても、情動経験の中に自ら没入し、それを振り返り考えていく(内省する)というこの精神分析の魅力は、揺るぎない「実質」のように思う。本書は、私が日常実践している子どもと大人の精神分析的心理療法実践から一歩離れたところで考えてきたことを言葉にしてきた文章から構成されている。(「第1章」より)
■目次
イントロダクション
第1章 精神分析ってなんぼのもん?
第2章 心理臨床家の自立について──内省と観察の営みとしての精神分析の学び、そして深まり
パート1 精神分析を学ぶこと
第3章 フロイトとその現代的意義
第4章 子どもの精神分析と「小さき者」に向き合うこと──クラインの軌跡を追って
第5章 精神分析と自閉症を持つ子どもとの出会い──タスティンにみる精神分析の神髄
第6章 精神分析臨床の革新──ビオン概念の臨床活用
補章 開かれた対話──精神分析学会における討議から
パート2 精神分析を深めること
第7章 メラニー・クラインの「児童分析」のインパクト
第8章 言葉を用いて考えること
第9章 精神分析的心理療法における「共感」の意味──A personal response
第10章 解釈を考える
第11章 〈人間世界〉への参入──虐待を受けた子どもと発達障害の子どもへの精神分析的アプローチ
第12章 美と精神分析
補章 大震災と詩──おわりに代えて


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