事件が取り上げられていた当時、友人が木嶋佳苗みたいな女に不幸にされる主人公の話だよと脳天気に勧めてくれたので、20年も前の映画だし、放映を待っても期待薄なので、ワン紙幣の価格も魅力で購入。木嶋佳苗みたいかは判断せず、映画は典型的な自己愛性の人格障害であるヘディに苦しめられるアリーの話。自己愛性というと自分大好きと誤解するかもしれないが、実は正反対で自分自身が大嫌いで、自分の外部にモデルを探し、そのモデルに成り代わりたいという自己欺瞞と誇大妄想に取り憑かれた人格障害。それがアリーの最後の台詞に集約されている。アリーとヘディは消音にしていても一目見ただけで分かるようになっている配役がミソ。ヘディ役のジェニファー・ジェイソン・リーがアリー役のブリジット・フォンダより背は小さいし、口の横から顎にかけて肉が余っていて田舎臭く、洗練されたアリーになりたいのももっともだと思わせながら、アリーと比べてしまうからヘディが劣って見えるだけで可愛い方だという、その小さな差であり優劣を、ヘディ自身が明確にしてしまう過程が凄惨でグロ。カンニングをされる方する方には能力の優劣差があり、カンニングをする方はそれを認めた上でしているとは良く言ったもので、衝動を押さえておけばヘディの中だけの事実を彼女自ら暴露しているから救いがない。その衝動を止められないから障害なんだろうけど。アリーの恋人がヘディをアリーにへばりついて迷惑をかけていると責め立てて、ヘディは否定しているが、ヘディ自身が最も分かっている事なんだろう。だから、クライマックスの外部の自己であるべきモデルのアリーを殺そうとする無理心中へとひた走るようなヘディの自己破壊的行為の内に象徴的なシーンがある。アリーの自殺を偽装するために無理矢理遺書を書かせるのだが、それが「ひとりになるのはいや。自分を偽るのもいや」とヘディ本人の心情の吐露のような文になっている。そして、結末は?ヘディの自己破壊願望は満たされるのだろうか?「一卵性双生児は本当は似てないの。二人いても美人は一人だけ」と言うヘディ。女二人いれば優劣があるだろうが、自ら優劣を騒ぎ立ててしまうヘディという救いのない女の話でもあった。