もしも、ジョルジュ・バタイユを別の本から知っていなかったら、このオーシュ卿なる変名で書かれた一冊のフェチ小説は、読んだ後すぐに、聖水で清めずにはいられなかっただろう。それほどまでに、えぐい(訳者の言葉を借りれば)倒錯的性愛(愛ではなく、セックスである)に塗れた、ポルノまがいの?神小説である。 しかし、バタイユは、何も神(=西欧の正義や貞操)を辱めるためにこのような小説を書いたのではなく、文字通り、そこには鬱積したバタイユ自身の歪んだセックス観が、さも物欲しげに、あまりに乱暴に、そしてあまりに純粋(そう、少年の青さである)に吐露されているのである。訳者・生田耕作もさぞや嬉々としてこの暗黒文学に身を委ねたことであろう。 のみならず、意味的な比喩や象徴を多用し、眼球、卵、生命の神秘を巧みに交錯させ、置き換えることで、後のバタイユのエロティシズムの思想の萌芽を見いだせる。 女性器、肛門、精液・・・バタイユの変態的美意識の舌が、味蕾のザラ付きが、私の眼球を舐める!!
刊行当時、もしこの本に出会っていたら、私はカウンセリングの勉強をしていなかったかも知れない。なぜなら、カウンセリングに当時抱いていたイメージと、本書の内容は大幅に乖離しているからである。 10年以上前、カウンセリングとは、“心”を扱う援助的行為と思っていた。しかし、実際カウンセリングが対象とするのはむしろ関係性(もちろん、個人の心も包含した)の方である。 私自身が、なぜカウンセリングを勉強し、今カウンセリングに対してどのような距離感を持っているのかを計るために、あえて入門書を手に取ってみた次第だが、改めて、カウンセリングは思弁ではなく、実践の中においてこそ存在するものだと気付かされた。
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眼球譚[初稿]
もしも、ジョルジュ・バタイユを別の本から知っていなかったら、このオーシュ卿なる変名で書かれた一冊のフェチ小説は、読んだ後すぐに、聖水で清めずにはいられなかっただろう。それほどまでに、えぐい(訳者の言葉を借りれば)倒錯的性愛(愛ではなく、セックスである)に塗れた、ポルノまがいの?神小説である。 しかし、バタイユは、何も神(=西欧の正義や貞操)を辱めるためにこのような小説を書いたのではなく、文字通り、そこには鬱積したバタイユ自身の歪んだセックス観が、さも物欲しげに、あまりに乱暴に、そしてあまりに純粋(そう、少年の青さである)に吐露されているのである。訳者・生田耕作もさぞや嬉々としてこの暗黒文学に身を委ねたことであろう。 のみならず、意味的な比喩や象徴を多用し、眼球、卵、生命の神秘を巧みに交錯させ、置き換えることで、後のバタイユのエロティシズムの思想の萌芽を見いだせる。 女性器、肛門、精液・・・バタイユの変態的美意識の舌が、味蕾のザラ付きが、私の眼球を舐める!!
カウンセリング心理学入門
刊行当時、もしこの本に出会っていたら、私はカウンセリングの勉強をしていなかったかも知れない。なぜなら、カウンセリングに当時抱いていたイメージと、本書の内容は大幅に乖離しているからである。 10年以上前、カウンセリングとは、“心”を扱う援助的行為と思っていた。しかし、実際カウンセリングが対象とするのはむしろ関係性(もちろん、個人の心も包含した)の方である。 私自身が、なぜカウンセリングを勉強し、今カウンセリングに対してどのような距離感を持っているのかを計るために、あえて入門書を手に取ってみた次第だが、改めて、カウンセリングは思弁ではなく、実践の中においてこそ存在するものだと気付かされた。