「見栄」が生んだ大惨事
ロシア戦争を控えた明治34年、陸軍は満州の寒さと降雪に供えて雪中行軍を計画する。指名されたのは現青森県駐在の第八師団。第八師団は、青森第5連隊と弘前第31連隊に厳寒期の八甲田山系における雪中行軍を命ずる。この命令を「研究」と捉えた弘前第31師団の行軍責任者徳島大尉は、士官・下士官中心の特別小隊を編成し、全行程240km、日程11日間の八甲田山系を周回する計画を立案する。一方、青森第5連隊首脳部は、これを雪中行軍訓練と研究と捉え、中隊編成としその責任者に神田大尉、研究のために大隊本部が随行する210名もの大部隊を八甲田山に送り込み。これは出発に際して弘前31連隊に遅れを取ったこと、行程が50km、2泊3日と短いことを意識した「見栄」であった。弘前31連隊が最難関の八甲田山系を最後に回したのに対して、青森5連隊はいきなり八甲田山に挑戦することになる。最初から神田大尉と大隊本部という2つの指揮系統をもつこととなった5連隊は雪中行軍の初日から指揮系統が混乱。計画立案者であった神田大尉の構想は次々と崩壊していく。それは第5連隊が崩壊する過程でもあった。現在の山岳事故の教訓ともなる小説である。
他のユーザのコメント