この世に必携の古典

易は、占いの本であるという認識だけで片付かない。むしろ、占いは読者を導くための良い意味での仕掛けであるとさえ思える。しかし当然われわれは、易で占う。決めかねることについて、不安な未来について、何らかの回答を得たいと思うものである。それで間違っていない。しかし、ひとつの卦の意味、変爻の意味の深さを身につけて、はじめて吉であることを考慮に入れるとき、われわれは常に衿を正さねばならない。凶などであれば、なおさらである。すなわち、この書は処世といっても、目的を外に定めるからには、まずおのが身を律せねばならない。律するというと、やや堅苦しい感がただようが、そうではない。むしろ、身を変化に適応できるだけ、柔らかくせねばならない。さらに、踏み込んで言えば、われわれは、いずれは死ななければならない。そうしたとき、凶という困難でさえ、われわれの生の宝である。われわれ人間は、その困難からこそ、よく学ぶものなのだ。それは繋辞を読めば分かるものなのだ。そうであるなら、この書に記されているすべての文言は、常にわれわれ人間のあり方のひとつに相当しないだろうか。