葬儀の多様化
葬儀や供養について宗教により異なる為に、亡くなった人の考えをあくまで尊重するべきだが、葬式や墓・供養が故人の為というよりも、結局は故人の遺族の為に行っている様に思われる。世間体を気にしたり、確かな根拠の無い習慣やしきたりに従ったり、自分(遺族)が死後に入る所が在るという安心感が得られる為等。それらの事が、本当に故人の為になっているとは限らない。遺族が自分の都合の良いように、納得して信じているだけかもしれない。少なくとも従来からの高価な葬式や墓は間違いで、戒名や位牌に掛ける金額によって死後の行く先が決まってしまうと言う理屈は、昔のカトリックの免罪符と同じで、腐敗に値すると思う。又、人間の手によって死者を供養する等は、人間の傲慢・思い上がりでもあるように思う。供養とは死者の霊を治め鎮めるもので、呪って出て来ない様にする為のもの。キリスト教においては供養と言う概念は全く無く、其れを行う必要は無い。キリスト教においては、霊魂は神の許に行っているとされ、墓は其の入り口に過ぎない。他にも「千の風になって」という歌にも在る様に、それではお骨・お墓はどうでもよいと思えるのであるが、プロテスタントの教会等では、独自の納骨堂に故人の遺骨を大事に治めたりしている。もう一つ曖昧に感じる。江戸時代まで、身分の高く無い一般大衆は苗字の無い名前だけだった訳で(ファーストネームだけ)、「何々家之墓」とは言っても、所詮、明治以降に過ぎない。又、火葬率が上がって来た事も昭和に入ってからで、土葬で同じ墓に何体も入れる事が出来る訳が無い。檀家制度は、江戸時代に現在の役所の役割である戸籍の管理を寺が負わされたもので、担当する檀家の者が亡くなった後、其の寺で合葬した。現在でも永代供養は、例え個別に分けて納骨しても、30年~50年経てば合葬される。合葬後は、他の地に改葬出来ない。それに、お骨上げの時に既に、骨壺に入りきれなかった分のお骨は合葬されている。江戸時代より前は、山に野捨て等も一般大衆の間では行われていた。他に現在では、火葬のみの直葬、海洋葬等の散骨・樹木葬等の自然葬も在る。手元供養はそれら他の葬儀と併用される。遺族が身近に死者を感じていたいという場合等に良いみたい。大体、遺骨をさっさと納骨してしまうというのは、其の遺骨が邪魔者扱いされている様にも感じる。
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