禅宗、精神分析、短歌は、無に手を合わせて、沈黙の力で耐えるという構造をしています。ベケットもそうですね。ベケットの文章も、沈黙を守りながら、波の中に消えていく、そのような時間稼ぎなんです。 私、ほとんど千年後には今の憲法学や国際法学は、なくなっていると思うんです。唯一、沈黙の力に頼った者だけが生き延びるんです。このことはオイデプスとイオカステの物語から明らかであります。 象徴界の復権は聞こえはいいのですが、その魔術的な力をインターネットの幻想で満たすのはあまりにも見苦しいですね。インターネットには、あそこには沈黙がない。だから、千年後にはほとんど死に絶えているでしょう。 無に対して、沈黙をもってして耐える。差延には、沈黙による時間稼ぎという側面があると思います。こういうところがフランスの良いところですね。 他方、アメリカ人たちの会話を聞いてみればわかりますが、そこには沈黙の力がない。瞬間的で爽快で、即効性のある道具でしかない。ストロングチューハイみたいな道具としての言葉を使っておるんです。 言葉には臓器を満たすところがある。うるおいがあるのです。他の享楽を満たす言葉の力があるんです。ギリシアの古代人は謙虚でしたから、オイデプスの物語によって沈黙の力が生き残ることを託しました。ですが、どうでしょう。ウクライナとロシアの戦争を見ればわかるとおり、その努力さえ失敗に終わったのではないでしょうか。無に対して、沈黙を守り、さざ波の中に消えていく、それも際限なく戦争を終わらせていく姿勢が求められているのだと、私は思います。差延は、そのひとつの姿勢なんですね。私の偏見ですが。