■主たる材を夢にとった筒井康隆氏の作品のひとつ。 ■筒井康隆氏の作品はほとんどどれもがそうなのであるが、本作品もまた実によみごたえがある。 ■かかれたことが「意味」となってあたまにおさまらないうちでもグイグイひきこまれて目はつぎつぎにつづりをおってしまう。そういう状態になるのは夢からの描写であろうとおもわれる箇所である。だから、たぶん、夢の描写なのでイメージゆたかであるために、ことばがハッキリした「意味」をむすぶかむすばぬかのギリギリあたりですでに意識というより無意識のほうはさきにグイグイとひきまれていってしまうのではないか……などとシロートかんがえにおもったのだが、どうだろうか。その、意味もハッキリわからぬままにグイグイひきこまれるという読書体験が本書のおおきなおもしろみの1つでもあろうかなどとシロート考えにおもうのだが…… ■本作品は谷崎潤一郎賞を受賞した。■
■とても味わいのある短篇。心に残る。時々よみ返したくなる。 ■ただし宮崎駿氏は首相の麻生太郎氏のマンガ好き公言について“はずかしい““こっそりやればいい”などとのべたそうだ。 ■なぜ「はずかしい」のか。なぜ「こっそり」か。“まんがは下等だ”と宮崎駿氏が思っていることの他にこの理由があるのか。これは宮崎駿氏自身よってたつハズのマンガ表現の全てを何の根拠もなく丸ごと全否定したものだろう。 ■それならなぜご自分はそんな表現に長年よってたっておられるのか? ■言論も思想も何せ自由だから「まんがは地上から全部きえろ」「まんがは下等・劣等」と思う人があってもいい。そう思うのは自由だ。だがそう思う人が当のマンガでファンを作り利益をえ続けてきた人物だったらどうなのか。宮崎駿氏はまさにそれにあてはまる。音楽の世界でサザン・オール・スターズの桑田圭祐氏が長渕剛氏を批判して「全ての歌にザンゲしな」と唄った事が昔ある。宮崎駿氏もまた“これまでの全ての作品にザンゲしな”と批判されるべきではないのか? ■時の首相たる権力者を批判するという“カッコいい事”“正義の反逆者ぶり”を世界にみせびらかす目的で自身よってたつものを「売りとばした」。宮崎駿氏の真意は何であれ図式的にはこれだろう。宮崎駿氏の作品にこれをたとえれば『もののけ姫』の少女サンが私利私欲の為に生き物も神々も全部ひっくるめてシシガミの森をひと山なんぼで人間に「売りとばした」事に当る。「自身よってたつ」とはそういう意味だ。自身よってたつ場所、自分を自分自身にしてくれた場所だからこそサンは森を守る為に命をかけるのだろう。 ■こんな“哲学”が本音の人であったとは、いかに優れた諸作品をものしてきた人物であっても全面的な好評は到底できない。作品など業績の水準にふさわしい哲学をケの先ほどももたぬ未熟なオトナのお1人にすぎなかった事を疑う余地なく証明した発言といえる。宮崎駿氏までがそうだったとは真に残念である。真にガッカリさせられる出来事だった。成熟した精神の親なら宮崎駿氏には2どと“子供たち”云々とは口にしてほしくないと心底願いたくなる言動ではなかろうか。 ■本作品をすばらしいと思うだけに宮崎駿氏のこの1面にもふれなければ公平でないと思い1言した。最後にくり返す── ■本作品はとても味わいのある短篇であり、心に強く残る、時々よみ返したくなる1冊である。■
■高橋留美子氏の珠玉の絶品のと世評もかまびすしくその名もたかい人魚ものの1さつ。この人魚ものは(これまでのところ)全部で9話からなる。それらの題を発表された順に初出の年をそえてすべてならべればつぎのとおり。 ■一『人魚は笑わない』(1984年)。二『闘魚の里』(1985年)。三『人魚の森』(1987年)。四『夢の終わり』(1988年)。五『約束の明日』(1990年)。六『人魚の傷』(1992年)。七『舎利姫』(1992年)。八『夜叉の瞳』(1993年)。九『最後の顔』(1994年)。 ■以上の9話のうち本書には七~九の3話がおさめられている。 ■ま、これほどの傑作はただ「よむこと」があるだけで、ことばや意見などは1つもいらないだろう。 ■人魚の×にかかわって「人間」をうしなったものたちが、それぞれに血をはくようなドラマを演じてこの×から1つ2つとその×××を××××ゆく。そのたびに湧太(ゆーた)と真魚(まな)との関係はふかくなってゆく。 ■ヤボと不粋を承知で1ついえば、湧太はおのれの身のうえをロクでもないことと基本的にはかんがえていて、それはそれでよいのだが、湧太とおなじ身のうえにおちいりながらも湧太とちがってそれを「すばらしいこと」とまえむきにとらえ、そのとおりすばらしい人生をおくっている人物(たち)にめぐりあってなお湧太がおのれのきもちをかえないという話があればどうなのか……などとないものネダリをおぼえてしまうことである。ま、こんな妄想がついうかんでしまうのも、本作品のデキがあまりにすぐれているからにちがいないのだが。■
■「おもいつき」という内的なできごとにかかわるこうした法則的なことがらは、この本ができるずっとまえにおいても、ほかのおおくのひとたちにも経験的に身におぼえのあったことだろうとおもわれる。それを「技術」にしたという点がこのひとのほかとはちがうところなのであろう。 ■技術とは「だれでもマネれるかたち」という意味である。すなわち「着想」「発想」といった内的なできごとを「だれでもマネれるかたち」にできるものとみて、このようにそれをつくりあげたわけである。 ■それが本書の内容である。■
■筒井康隆氏の初期短篇集である。 ■筒井康隆氏は本書の巻頭に3人の弟さんたちへの献辞をおいている。感慨ぶかくみえるものである。 ■ぜんぶで9作品がおさめられているが、筒井康隆氏のすべての作品集の例にもれず本書においても全作品が一定の水準をみたしており、どれもよみごたえがある。 ■僭越ながら当方の1おしは『お紺昇天』である。 ■また、『チューリップ・チューリップ』などは、なぜこの作品にこの題がつけられているのか、どうよんでもサッパリわけがわからず、まことにくびをひねるばかりであり、そんな種類のたのしみ方をもたらしてもくれるというかたちにつくられている。これもまた筒井康隆氏のサービス精神というべきであろうか。■
期間限定の特別価格でプレミアムサービスを体験
あなたのビジネスを次のレベルへ
© Copyright 2025, All Rights Reserved
夢の木坂分岐点
■主たる材を夢にとった筒井康隆氏の作品のひとつ。 ■筒井康隆氏の作品はほとんどどれもがそうなのであるが、本作品もまた実によみごたえがある。 ■かかれたことが「意味」となってあたまにおさまらないうちでもグイグイひきこまれて目はつぎつぎにつづりをおってしまう。そういう状態になるのは夢からの描写であろうとおもわれる箇所である。だから、たぶん、夢の描写なのでイメージゆたかであるために、ことばがハッキリした「意味」をむすぶかむすばぬかのギリギリあたりですでに意識というより無意識のほうはさきにグイグイとひきまれていってしまうのではないか……などとシロートかんがえにおもったのだが、どうだろうか。その、意味もハッキリわからぬままにグイグイひきこまれるという読書体験が本書のおおきなおもしろみの1つでもあろうかなどとシロート考えにおもうのだが…… ■本作品は谷崎潤一郎賞を受賞した。■
シュナの旅
■とても味わいのある短篇。心に残る。時々よみ返したくなる。 ■ただし宮崎駿氏は首相の麻生太郎氏のマンガ好き公言について“はずかしい““こっそりやればいい”などとのべたそうだ。 ■なぜ「はずかしい」のか。なぜ「こっそり」か。“まんがは下等だ”と宮崎駿氏が思っていることの他にこの理由があるのか。これは宮崎駿氏自身よってたつハズのマンガ表現の全てを何の根拠もなく丸ごと全否定したものだろう。 ■それならなぜご自分はそんな表現に長年よってたっておられるのか? ■言論も思想も何せ自由だから「まんがは地上から全部きえろ」「まんがは下等・劣等」と思う人があってもいい。そう思うのは自由だ。だがそう思う人が当のマンガでファンを作り利益をえ続けてきた人物だったらどうなのか。宮崎駿氏はまさにそれにあてはまる。音楽の世界でサザン・オール・スターズの桑田圭祐氏が長渕剛氏を批判して「全ての歌にザンゲしな」と唄った事が昔ある。宮崎駿氏もまた“これまでの全ての作品にザンゲしな”と批判されるべきではないのか? ■時の首相たる権力者を批判するという“カッコいい事”“正義の反逆者ぶり”を世界にみせびらかす目的で自身よってたつものを「売りとばした」。宮崎駿氏の真意は何であれ図式的にはこれだろう。宮崎駿氏の作品にこれをたとえれば『もののけ姫』の少女サンが私利私欲の為に生き物も神々も全部ひっくるめてシシガミの森をひと山なんぼで人間に「売りとばした」事に当る。「自身よってたつ」とはそういう意味だ。自身よってたつ場所、自分を自分自身にしてくれた場所だからこそサンは森を守る為に命をかけるのだろう。 ■こんな“哲学”が本音の人であったとは、いかに優れた諸作品をものしてきた人物であっても全面的な好評は到底できない。作品など業績の水準にふさわしい哲学をケの先ほどももたぬ未熟なオトナのお1人にすぎなかった事を疑う余地なく証明した発言といえる。宮崎駿氏までがそうだったとは真に残念である。真にガッカリさせられる出来事だった。成熟した精神の親なら宮崎駿氏には2どと“子供たち”云々とは口にしてほしくないと心底願いたくなる言動ではなかろうか。 ■本作品をすばらしいと思うだけに宮崎駿氏のこの1面にもふれなければ公平でないと思い1言した。最後にくり返す── ■本作品はとても味わいのある短篇であり、心に強く残る、時々よみ返したくなる1冊である。■
夜叉の瞳
■高橋留美子氏の珠玉の絶品のと世評もかまびすしくその名もたかい人魚ものの1さつ。この人魚ものは(これまでのところ)全部で9話からなる。それらの題を発表された順に初出の年をそえてすべてならべればつぎのとおり。 ■一『人魚は笑わない』(1984年)。二『闘魚の里』(1985年)。三『人魚の森』(1987年)。四『夢の終わり』(1988年)。五『約束の明日』(1990年)。六『人魚の傷』(1992年)。七『舎利姫』(1992年)。八『夜叉の瞳』(1993年)。九『最後の顔』(1994年)。 ■以上の9話のうち本書には七~九の3話がおさめられている。 ■ま、これほどの傑作はただ「よむこと」があるだけで、ことばや意見などは1つもいらないだろう。 ■人魚の×にかかわって「人間」をうしなったものたちが、それぞれに血をはくようなドラマを演じてこの×から1つ2つとその×××を××××ゆく。そのたびに湧太(ゆーた)と真魚(まな)との関係はふかくなってゆく。 ■ヤボと不粋を承知で1ついえば、湧太はおのれの身のうえをロクでもないことと基本的にはかんがえていて、それはそれでよいのだが、湧太とおなじ身のうえにおちいりながらも湧太とちがってそれを「すばらしいこと」とまえむきにとらえ、そのとおりすばらしい人生をおくっている人物(たち)にめぐりあってなお湧太がおのれのきもちをかえないという話があればどうなのか……などとないものネダリをおぼえてしまうことである。ま、こんな妄想がついうかんでしまうのも、本作品のデキがあまりにすぐれているからにちがいないのだが。■
アイデアのつくり方
■「おもいつき」という内的なできごとにかかわるこうした法則的なことがらは、この本ができるずっとまえにおいても、ほかのおおくのひとたちにも経験的に身におぼえのあったことだろうとおもわれる。それを「技術」にしたという点がこのひとのほかとはちがうところなのであろう。 ■技術とは「だれでもマネれるかたち」という意味である。すなわち「着想」「発想」といった内的なできごとを「だれでもマネれるかたち」にできるものとみて、このようにそれをつくりあげたわけである。 ■それが本書の内容である。■
東海道戦争改版
■筒井康隆氏の初期短篇集である。 ■筒井康隆氏は本書の巻頭に3人の弟さんたちへの献辞をおいている。感慨ぶかくみえるものである。 ■ぜんぶで9作品がおさめられているが、筒井康隆氏のすべての作品集の例にもれず本書においても全作品が一定の水準をみたしており、どれもよみごたえがある。 ■僭越ながら当方の1おしは『お紺昇天』である。 ■また、『チューリップ・チューリップ』などは、なぜこの作品にこの題がつけられているのか、どうよんでもサッパリわけがわからず、まことにくびをひねるばかりであり、そんな種類のたのしみ方をもたらしてもくれるというかたちにつくられている。これもまた筒井康隆氏のサービス精神というべきであろうか。■