家族も、財産も、友人も、仕事も、なにひとつ持たないシングルマザーの珊瑚が、生まれたばかりの雪をかかえて、小さな町に降り立つ。そこで不思議なあたたかみを持つ女性、くららと出会い、彼女に与えられた一杯のスープから、珊瑚は食堂を開店することを思い立つ―― という導入を披露すると、「ああこれはまた、ひとりぼっちの女が小さな食堂を開いて、心をこめた料理をふるまうことで、お客さんたちに奇跡を起こし、同時に自分も幸せをつかむ、というような、いわゆる“レストランファンタジー”のひとつなんだろうな」と思われるかもしれない。(『食堂かたつむり』のような。) 近年そういう物語はよくあるし、そのような作品は映像化もしやすいのか、似たような映画も多々公開されていて、まあそれはそれでひとつのおとぎ話として見るなり読むなりすればいいのだけれど、あんまり現実味のない感動ストーリーには食傷気味でもある。 もちろん、梨木果歩はそんなパターンを踏むつもりは毛頭ないらしく、読み進めるにしたがってほっとした。 珊瑚と雪を取り囲む現実は、常に厳しい。現実世界の中で、ぽんと店を開ける人などいないように、土地を探し、保証人を依頼し、仕入れ先を下見し…という初期段階で、まず現実がきっちりと主人公を圧する。なんとか店を開いたところで、アルバイトに払う賃金、雑誌の取材と一時的な店の多忙、成功を妬む人との軋轢など、日々の生活の諸問題が彼女を悩ます。 「おいしい食事が客の人生を劇的に一変させた」とか「あたたかい人々に囲まれ最後は皆わかりあえたのでした」といった、甘い夢物語は描かれない。堅実に、投げ出さず、日々を乗り越えていく、その日常が主人公をほんの少しだけ変えていく。ああ、これが現実だ、と読者が納得できる形で。 奇跡はそう簡単に起こるものではないし、人が本当に分かり合うということも不可能に近い。それでも現実をきちんと、いいかげんではなく生きていくこと。自分の人生を構築していく要素はそれしかないのだと、珊瑚と共に読者もきびしく、でもどこかあたたかく、再認識できる作品だ。
ほっとした。最近読んだこの著者のわりと新しめの小説が、ちょっと雰囲気の違うものだったから。でもこの作品は(小説ではなくエッセイだけれど)私の好きな梨木果歩のトーン――やわらかく流れるような、でも厳しくてつめたい、暗澹としたものを内に秘めた――で語られていて、なんだかやけに安心してしまった。 同時に、これまでの作品群に対する作者と作品との間の出来事も語られていて、『春になったら苺を摘みに』の続編のような位置付けともいえるし、『りかさん』の一場面を彷彿させる挿話もあったりして、ファンにはそういう細部までがうれしい。 そもそも題名が『不思議な羅針盤』だもの、それだけでわくわくして、新本で買わずにはいられない一冊だった。
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雪と珊瑚と
家族も、財産も、友人も、仕事も、なにひとつ持たないシングルマザーの珊瑚が、生まれたばかりの雪をかかえて、小さな町に降り立つ。そこで不思議なあたたかみを持つ女性、くららと出会い、彼女に与えられた一杯のスープから、珊瑚は食堂を開店することを思い立つ―― という導入を披露すると、「ああこれはまた、ひとりぼっちの女が小さな食堂を開いて、心をこめた料理をふるまうことで、お客さんたちに奇跡を起こし、同時に自分も幸せをつかむ、というような、いわゆる“レストランファンタジー”のひとつなんだろうな」と思われるかもしれない。(『食堂かたつむり』のような。) 近年そういう物語はよくあるし、そのような作品は映像化もしやすいのか、似たような映画も多々公開されていて、まあそれはそれでひとつのおとぎ話として見るなり読むなりすればいいのだけれど、あんまり現実味のない感動ストーリーには食傷気味でもある。 もちろん、梨木果歩はそんなパターンを踏むつもりは毛頭ないらしく、読み進めるにしたがってほっとした。 珊瑚と雪を取り囲む現実は、常に厳しい。現実世界の中で、ぽんと店を開ける人などいないように、土地を探し、保証人を依頼し、仕入れ先を下見し…という初期段階で、まず現実がきっちりと主人公を圧する。なんとか店を開いたところで、アルバイトに払う賃金、雑誌の取材と一時的な店の多忙、成功を妬む人との軋轢など、日々の生活の諸問題が彼女を悩ます。 「おいしい食事が客の人生を劇的に一変させた」とか「あたたかい人々に囲まれ最後は皆わかりあえたのでした」といった、甘い夢物語は描かれない。堅実に、投げ出さず、日々を乗り越えていく、その日常が主人公をほんの少しだけ変えていく。ああ、これが現実だ、と読者が納得できる形で。 奇跡はそう簡単に起こるものではないし、人が本当に分かり合うということも不可能に近い。それでも現実をきちんと、いいかげんではなく生きていくこと。自分の人生を構築していく要素はそれしかないのだと、珊瑚と共に読者もきびしく、でもどこかあたたかく、再認識できる作品だ。
不思議な羅針盤
ほっとした。最近読んだこの著者のわりと新しめの小説が、ちょっと雰囲気の違うものだったから。でもこの作品は(小説ではなくエッセイだけれど)私の好きな梨木果歩のトーン――やわらかく流れるような、でも厳しくてつめたい、暗澹としたものを内に秘めた――で語られていて、なんだかやけに安心してしまった。 同時に、これまでの作品群に対する作者と作品との間の出来事も語られていて、『春になったら苺を摘みに』の続編のような位置付けともいえるし、『りかさん』の一場面を彷彿させる挿話もあったりして、ファンにはそういう細部までがうれしい。 そもそも題名が『不思議な羅針盤』だもの、それだけでわくわくして、新本で買わずにはいられない一冊だった。