「トムは真夜中の庭で」のミュージカル(脚本・押川理佐さん)を観に行く予定なので、原作を読んでおきたかった。 私が子どもの頃に読んだのか、大人になってから読んだのか、正直言って記憶にない。 けれども断片的にストーリーを覚えているし、何より挿絵が印象に残っていて、懐かしいような、新鮮なような、不思議な感じがした。 そうした意味で、再読している私自身が、トムと遊んだ時代を夢に見る年老いたハティ、すなわちバーソロミュー夫人の立場と重なる。 最初に読んだときは、トムになって冒険した気分だったはずだけど……フィリパ・ピアスは、そんな読者の変化も見通していたのかもしれない。 この本の仕掛けに見事にハマったように感じる。 いずれにせよ、時を経て再読できてよかった。 つらい幼少期を過ごしたハティにとって、トムの存在は慰めだったろうし、彼女が大人になるにつれ、幸せになっていった物語に励まされる。 真夜中に象徴されるハティの人生にも、やがては朝が訪れるように、希望の光が注がれる時が来るのだ。 ちなみに、この作品に引用されている聖句(黙示録10章1節から6節)は、大天使ミカエルが世の終わりを宣言する箇所。 終末は近い!まもなくキリストが再臨される!大人たちよ、早く子どものような純粋な心を取り戻し、神に立ち返りなさい!……そんなメッセージを受け取るのは、私だけだろうか。 まだまだフィリパ・ピアスの仕掛けは続いている気がする。
私はプロテスタントのクリスチャンだけど、片柳神父の説教が好きで、毎朝のデボーションに用いている。YouTubeで片柳神父が撮影された美しいお花の写真を見て、丁寧な聖書朗読を聴いて、神様の愛に心を開く時間をもち、祈りを捧げて一日を始める。この10分くらいの時間で心が潤って、目に映る風景が全く違って見えるから不思議だ。急に世界に色彩が灯ったように見える。神様の愛は絶えず降り注いでいると、信じないではいられない。 この本は私にとって6冊目の片柳神父の著書だけど、求道し始めたばかりの学生と、それに向き合う神父の対話形式で構成されていて、非常に面白い。学生の質問を読むたびに「私ならどう答えるかなぁ」と考えさせられ、神父の言葉にハッとさせられることが多かった。 片柳神父の言葉が心に染みるのは、黙想して辿り着いた真理や、本心からの純粋な想いを語ることに集中されており、誰とも戦っていない姿勢にあるのかもしれない。静かに湧き出る泉のような文章に「誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」という聖書の御言葉が浮かんでくる。毎日イエスの弟子として尊い働きを続けながら、この本の帯のように「もう無理です。あとはあなたがやってください」と、神に祈ることも多々あるだろう。そこで与えられた恵みを、私達に分けてくださっている。この本のなかに生きて働くイエスの愛を見るからだ。 苦しいとき、出口が見えないとき、自分を見失いそうになったとき、暗闇に光が差し込むことを信じて、私も同じ台詞を言おうと思う。「光は闇のなかに輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」のだから。神と繋がる幸せ、共に生きる喜びは、なんて尊いことか……賛美と感謝を捧げて生きたい。
この本を読んで私もミサに与かりたいと思い、晴佐久神父がご奉仕されている教会まで伺った。 私はプロテスタントのクリスチャンだけど、カトリックに通っていた過去もあるため、いまでも機会を作ってミサに参列させていただく。 正直なところ、プロテスタントの礼拝に慣れてしまうと、カトリックのミサは非常に慌ただしく感じる。今現在、多くのプロテスタント教会は、朗読される聖書箇所、牧師の説教、賛美歌の歌詞、祈りの言葉など、全部スクリーンに映し出されるので、教会には手ぶらで行けばいい。献金も郵便局からの振込や、口座から自動引き落としのところが多い。献金箱くらいは置いてあっても、礼拝中に献金袋がまわってくる教会は減ったと思う。そうしたシステマチックな礼拝に慣れていると、カトリックのミサは集中力を要するし、あれを開いて、これを読んで、それを唱えて、立ったり、座ったり、財布を出したり、とにかく忙しく感じたし、久々に参列した私にとって、緊張も加わって疲れた。 けれども、この古風で温かいミサは忘れられない。窓から差し込む光、長椅子の木のぬくもり、使い古された本の匂い、陽に焼けたセピア色の紙、晴佐久神父の丁寧なお説教、聴いている参列者の心の動き(まるで朝陽のなかで蕾が一斉に花開くようだった)、生々しく伝わってきた。ミサ後は皆が晴れやかな笑顔で、楽しく語り合っており、私も明るい雰囲気が心地よくて、教会堂の前から立ち去るのが惜しい気持ちになった。 やっぱりミサに与かることは特別なのだろう。 YouTube配信されている礼拝やミサも恵みが多いけれども、電車に乗って片道1時間かけて来てよかった。祝福された。
優秀な牧師に出会って聖書研究を始めて5年、歴史や当時の文化・風習に基づいた解釈を学べて、私の信仰生活は恵まれてきたと感謝している。 ただ、カトリック教会では全く体験しなかった、人間関係の激しい衝突に疲弊し「こんなふうに国語や歴史を勉強するように、聖書を読んでばかりいていいのだろうか。もっと自分の心の内面に焦点を当てるべきなのでは」積もる悩みからこの本に辿り着いた。 最初におもしろい!と思ったのは「聖書を読むことが既に祈りである」という考え方。「そうなのか、それならできる」と思った。祈りに集中できないとき、疲れて思考がまとまらないとき、聖書をじっくりゆっくり読むことが祈りだなんて。まさにタイトルの通り「目からウロコ」! そして、反芻して読むことがいいと聞いてホッとした。普段から私は情景が浮かぶまで同じ箇所を何度も読む。これでよかったのだ。この後、なぜこの箇所が私の心に響いたか?洞察を深めたり、神は何を私に教えようとしているのか?適用を見出したり、神と共にいる時間を感じる。これがレクチオ・ディヴィナ(入門)なら、一人でも大勢でも、誰でもできる。 プロテスタントの聖書研究も大切だが(指導者の自分勝手な解釈と説教による「教会のカルト化」を防ぐ効果は非常に高い)、それとは別に時間を作って、このレクチオ・ディヴィナというクリエイティブな聖書の読み方・祈り方が教会内で行われれば、精神的に自律した信徒が増え、もっと落ち着いたクリスチャン生活に成長するのではないかと思う。少なくとも私は、関わっている教会や信徒の問題に振り回されず、カトリックとプロテスタント両方のよいところを取り入れて、神に喜ばれる信仰生活(主イエスのように、慎ましく、麗しく、気品に満ちた生活)を心がけて歩みたい。
おもしろい。翻訳者のこだわりと意気込みを感じる。 私の家は親戚中クリスチャン。 それぞれが興味深く読んで、聖書研究に活かしている。 旧約聖書も出版されないだろうか。 信仰者はもちろん、信仰者でない人にも読んでほしい。
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トムは真夜中の庭で
「トムは真夜中の庭で」のミュージカル(脚本・押川理佐さん)を観に行く予定なので、原作を読んでおきたかった。 私が子どもの頃に読んだのか、大人になってから読んだのか、正直言って記憶にない。 けれども断片的にストーリーを覚えているし、何より挿絵が印象に残っていて、懐かしいような、新鮮なような、不思議な感じがした。 そうした意味で、再読している私自身が、トムと遊んだ時代を夢に見る年老いたハティ、すなわちバーソロミュー夫人の立場と重なる。 最初に読んだときは、トムになって冒険した気分だったはずだけど……フィリパ・ピアスは、そんな読者の変化も見通していたのかもしれない。 この本の仕掛けに見事にハマったように感じる。 いずれにせよ、時を経て再読できてよかった。 つらい幼少期を過ごしたハティにとって、トムの存在は慰めだったろうし、彼女が大人になるにつれ、幸せになっていった物語に励まされる。 真夜中に象徴されるハティの人生にも、やがては朝が訪れるように、希望の光が注がれる時が来るのだ。 ちなみに、この作品に引用されている聖句(黙示録10章1節から6節)は、大天使ミカエルが世の終わりを宣言する箇所。 終末は近い!まもなくキリストが再臨される!大人たちよ、早く子どものような純粋な心を取り戻し、神に立ち返りなさい!……そんなメッセージを受け取るのは、私だけだろうか。 まだまだフィリパ・ピアスの仕掛けは続いている気がする。
何を信じて生きるのか
私はプロテスタントのクリスチャンだけど、片柳神父の説教が好きで、毎朝のデボーションに用いている。YouTubeで片柳神父が撮影された美しいお花の写真を見て、丁寧な聖書朗読を聴いて、神様の愛に心を開く時間をもち、祈りを捧げて一日を始める。この10分くらいの時間で心が潤って、目に映る風景が全く違って見えるから不思議だ。急に世界に色彩が灯ったように見える。神様の愛は絶えず降り注いでいると、信じないではいられない。 この本は私にとって6冊目の片柳神父の著書だけど、求道し始めたばかりの学生と、それに向き合う神父の対話形式で構成されていて、非常に面白い。学生の質問を読むたびに「私ならどう答えるかなぁ」と考えさせられ、神父の言葉にハッとさせられることが多かった。 片柳神父の言葉が心に染みるのは、黙想して辿り着いた真理や、本心からの純粋な想いを語ることに集中されており、誰とも戦っていない姿勢にあるのかもしれない。静かに湧き出る泉のような文章に「誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」という聖書の御言葉が浮かんでくる。毎日イエスの弟子として尊い働きを続けながら、この本の帯のように「もう無理です。あとはあなたがやってください」と、神に祈ることも多々あるだろう。そこで与えられた恵みを、私達に分けてくださっている。この本のなかに生きて働くイエスの愛を見るからだ。 苦しいとき、出口が見えないとき、自分を見失いそうになったとき、暗闇に光が差し込むことを信じて、私も同じ台詞を言おうと思う。「光は闇のなかに輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」のだから。神と繋がる幸せ、共に生きる喜びは、なんて尊いことか……賛美と感謝を捧げて生きたい。
贈りもの 晴佐久昌英クリスマス説教集
この本を読んで私もミサに与かりたいと思い、晴佐久神父がご奉仕されている教会まで伺った。 私はプロテスタントのクリスチャンだけど、カトリックに通っていた過去もあるため、いまでも機会を作ってミサに参列させていただく。 正直なところ、プロテスタントの礼拝に慣れてしまうと、カトリックのミサは非常に慌ただしく感じる。今現在、多くのプロテスタント教会は、朗読される聖書箇所、牧師の説教、賛美歌の歌詞、祈りの言葉など、全部スクリーンに映し出されるので、教会には手ぶらで行けばいい。献金も郵便局からの振込や、口座から自動引き落としのところが多い。献金箱くらいは置いてあっても、礼拝中に献金袋がまわってくる教会は減ったと思う。そうしたシステマチックな礼拝に慣れていると、カトリックのミサは集中力を要するし、あれを開いて、これを読んで、それを唱えて、立ったり、座ったり、財布を出したり、とにかく忙しく感じたし、久々に参列した私にとって、緊張も加わって疲れた。 けれども、この古風で温かいミサは忘れられない。窓から差し込む光、長椅子の木のぬくもり、使い古された本の匂い、陽に焼けたセピア色の紙、晴佐久神父の丁寧なお説教、聴いている参列者の心の動き(まるで朝陽のなかで蕾が一斉に花開くようだった)、生々しく伝わってきた。ミサ後は皆が晴れやかな笑顔で、楽しく語り合っており、私も明るい雰囲気が心地よくて、教会堂の前から立ち去るのが惜しい気持ちになった。 やっぱりミサに与かることは特別なのだろう。 YouTube配信されている礼拝やミサも恵みが多いけれども、電車に乗って片道1時間かけて来てよかった。祝福された。
聖書の読み方レクチオ・ディヴィナ入門
優秀な牧師に出会って聖書研究を始めて5年、歴史や当時の文化・風習に基づいた解釈を学べて、私の信仰生活は恵まれてきたと感謝している。 ただ、カトリック教会では全く体験しなかった、人間関係の激しい衝突に疲弊し「こんなふうに国語や歴史を勉強するように、聖書を読んでばかりいていいのだろうか。もっと自分の心の内面に焦点を当てるべきなのでは」積もる悩みからこの本に辿り着いた。 最初におもしろい!と思ったのは「聖書を読むことが既に祈りである」という考え方。「そうなのか、それならできる」と思った。祈りに集中できないとき、疲れて思考がまとまらないとき、聖書をじっくりゆっくり読むことが祈りだなんて。まさにタイトルの通り「目からウロコ」! そして、反芻して読むことがいいと聞いてホッとした。普段から私は情景が浮かぶまで同じ箇所を何度も読む。これでよかったのだ。この後、なぜこの箇所が私の心に響いたか?洞察を深めたり、神は何を私に教えようとしているのか?適用を見出したり、神と共にいる時間を感じる。これがレクチオ・ディヴィナ(入門)なら、一人でも大勢でも、誰でもできる。 プロテスタントの聖書研究も大切だが(指導者の自分勝手な解釈と説教による「教会のカルト化」を防ぐ効果は非常に高い)、それとは別に時間を作って、このレクチオ・ディヴィナというクリエイティブな聖書の読み方・祈り方が教会内で行われれば、精神的に自律した信徒が増え、もっと落ち着いたクリスチャン生活に成長するのではないかと思う。少なくとも私は、関わっている教会や信徒の問題に振り回されず、カトリックとプロテスタント両方のよいところを取り入れて、神に喜ばれる信仰生活(主イエスのように、慎ましく、麗しく、気品に満ちた生活)を心がけて歩みたい。
新約聖書 改訂新版
おもしろい。翻訳者のこだわりと意気込みを感じる。 私の家は親戚中クリスチャン。 それぞれが興味深く読んで、聖書研究に活かしている。 旧約聖書も出版されないだろうか。 信仰者はもちろん、信仰者でない人にも読んでほしい。